大学の文学界つながりということもありキャンパスの生協に山積みされていた川上未映子さんの「ヘヴン」を重い腰をあげて手にとった。「圧倒的感動!」「驚愕と衝撃!」「反響続々、販売即3刷り」とオレンジ色の帯に、太字で賞賛の文字が堂々たるフォントで並んでいた。私は川上さんの作品が好きだがここまで明らかに宣伝文句を並べられると逆に疑問を抱いてしまう。その結果、初版から三ヶ月たつまでこの本を手にとることをしなかった。久しぶりに小説が読みたかったのと、完全なミーハーで手に取った小説は、さほど期待をしていなかった私の想像をはるかに上回るほどの僕の感性に刺激をもたらした。
そんな「ヘヴン」を読んで考えたことをつらつらと。
まず、主人公の「僕」は「斜視」が原因で同級生からいじめられている。(実際にそれが原因かはおくことにする)
私自身何度もいじめに目撃しているし、自分は手を出さなくとも、誰かがいじめられているのをみて笑っていることがあったことは否定できない。自分がいじめられる側だったせよいじめる側だったにせよ、大半の人が学校という枠の中でいじめという現象に関わってきたのではないだろうか。だからこそ、表現されている凄惨な暴力シーンが、容易に想像できてしまい、戦慄を覚えてしまう。
そんなことを考えている中、本書中盤で主人公が一連のいじめにおける主犯者の一人である百瀬に、君たちに暴力を振るう権利はないと問いただす。すると百瀬は答える。
「権利があるから、人ってなにかするわけじゃないだろ。したいからするのだよ」
設定が中学生ということもあり、いかにも中学生らしい意見に聞こえてしまう。
しかしどうだろうか、これはあまりにも現実世界と酷似している。
ここで表現されている通り「やりたいからやる理論」を持つ人間と、その人間が行う行為に対して観念的に「やってはいけない」と思っている人間には大きなズレが生じている。それは、いじめだけではなく「電車の中で騒ぐこと」、だったり「ポイ捨てすること」とも適応するズレだ。これらの行為は私の中で「やってはいけない」行為に入っている。そして、これらの行為を注意するときは「他者の迷惑になるから」、「町を汚すことになるから」と何かしらの理由を提示することになる。ちょうど物語中で「僕」が百瀬に対していじめる権利がないからいじめるなといったことと同じようになる。
しかし、片方が「やってはいけない」と思う行為を当たり前のように行う人間は、なんらかの理由や反骨精神をもってこの行為を行っているわけではない、ましては、いじめる権利があるからいじめているわけではない。ただ備わっている欲求に素直にしたがって行動しているだけだ。つまり、ポイ捨ての例に準えると「捨てたいから捨てる」となる。
ここで、完全に二つの議論に齟齬が生じる。一方は理由を提示し、一方は欲求を具現化する。この二つの議論が対義語どころが、同じ階層に属する話題ですらないからこそ疎通がうまくいかない問題が生じるのではないだろうか。
私が例に挙げた話に関しては人それぞれ意見があるとして、「ヘヴン」に取り上げられているいじめのように、他者の「やりたいからやる理論」で自分が不都合を被ったときにどのように対処するかは考えておくべきかもしれない。
一つだけ、この点に関して意見を述べておくと、「やりたいからやる」理論と同じ層で戦うのが一番だと思う。御託を並べず「やられたくないからやるな」と言う。これに尽きるのではないだろうか。
本書内では違う意見(方法)が出ていたので興味があればぜひ。